原裕一郎のバスケットボール物語(6)

メイプル倶楽部に所属した関係で、メイプル倶楽部のガード高松卓氏(慶応大学卒)に香椎併置中学バスケットボール部のコーチに就任してもらった。
顧問の戸川徳次先生は極めて熱心にお世話いただいた。
このおかげで香椎併置中学はメキメキ強くなり、県大会ではシード校となり、九州大会でも準優勝し、福岡県代表として九州大会や西日本大会にも出場したものである。
栢野武敏君(香椎高校第2回卒業 旧姓 柴田武敏君)は、九州では初の国際審判のライセンスを取り活躍した。
香椎高校にこんな素晴らしい先輩がいたことを後輩や在校生は大いに自慢してもいいのではかと思う。

小生の就職した迅務は従業員50人足らずの中小企業である。
佐野専務にお願いし、バスケットボール部を創部、実業団大会に出場、三菱電機や八幡製鉄とも対戦し、福岡県で準優勝の経験がある。
だがしかし、中小企業のため、まとまった練習ができず、迅務のバスケット部は廃部のやむなきに至った。

1948年(昭和23年)第3回福岡国体が開催された。小生は役員の資格で参加。 当時、川だったが埋め立てられ国体通りという名称の由来となっている。

福岡国体を契機に中高年のバスケット好きが福岡壮年バスケット大会をやろうと相談し、修猷館、福岡、筑紫、福商、香椎、嘉穂の6校35歳以上のOBを参加資格とし、各校持ち回りで春秋2回開催することになった。・・・・次回へ続く


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