原裕一郎のバスケットボール物語(5)

 

悪だくみする部員が居て故意にボールを体育館の外にけり出し、外で待っていた部員が素早くボールを持って部室に走る。
持ってきているボールのうち1個ぐらい盗んでも相手は気がつかないだろうというのである。
1日1個のペースで盗んでいたが、3~4個目に相手に気づかれ盗みはそれで終わった。子供心とは言え悪いことをしたものである。

小生が中学5年生の時、西日本新聞社主催の九州地区中学バスケットボール選手権大会が福岡市で行われた。
1回戦で強豪佐賀中学と当たった。公式試合出場はこれが初めて、8分クォーター制、香椎中学の得点は各クォーター3点で合計12点、第2クォーター以降、佐賀中学はレギュラーメンバーが1人も出場せず、控え選手にも軽くあしらわれて、与えた得点48点で大敗、このスコアは今でもよく覚えている。

小生は香椎中学を卒業(1948年S23)して福岡市社会人チーム(福岡メイプル倶楽部)に所属した。このチームは強かった。
昭和25年(筆者が20歳の時)九州大会(鹿児島市鴨池体育館)に福岡県代表で出場し優勝、東京で開催された全日本バスケットボール選手権大会出場権を得た。
いざオールジャパンへ!
当時は交通事情が悪く、国鉄のSL夜行列車“急“筑紫号”(寝台なし、2人向かい合わせ4人掛け、リクライニングなしの3等車、博多から東京まで25時間)
試合結果、小生はセンターの補欠で出場し8得点を稼いだが、1回戦で神戸学士倶楽部に敗退した。(神戸学士が優勝)・・・次回へ続く


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