とはいっても、戦後の物資不足の折、練習は裸足、試合は地下足袋、スポーツ店で未だバスケットシューズが販売されてない。
(唯一千代町の東田靴店が誂えで作っていたが高価でとても買えなかった)
ボールもチューブに空気を入れて紐で結び、皮革の中に入れ、紐通しで革紐を編み上げ靴のように穴に通したものだった。
革紐で編んだ部分が盛り上がるため、ドリブルするときは網目がフロアに当たらないように気を使わなければならなかった。
おまけにまん丸のボールはほとんどなく、多少の変形は仕方がなく大変お粗末なものだった。
チューブの空気漏れは日常茶飯事、チューブの穴あき修理や空気を入れて革紐を通す作業は下級生が担当したものである。
創部したばかりで技術は未熟だったが、練習はハードだった。
食糧難時代のことゆえいつも腹ペコ。夏は体育館の裏山の畑からきゅうりやさつまいもを取って来て、きゅうりは生かじり、さつまいもは部室で七輪で焼き、飢えを凌いだ。
焼き芋がばれて東野蜂郎先生からビンタを食ったことはよく覚えている。
戦後、福岡県・福岡市バスケットボール協会が設立される運びとなり、西南高校の岩田富郎先生やマツノスポーツ店の松野敏男社長がリーダーとなり小生も学生の身で理事会に参加した。
戦後のこと故、定期的なバスケットボール大会は開催されておらず、対外試合は相手校に申し入れして、招いた側の学校に来てもらって試合を行う招待練習試合が主流だった。・・・・次回へ続く