原裕一郎のバスケットボール物語(3)
占領軍のジープは国道3号線を箱崎⇒名島⇒香椎⇒和白を経由して左折し、志賀島方面へ⇒ジープは西戸崎の米軍駐屯地へ入って行く。
ジープから降ろされ、しばらく待っていると、米兵はボールを持ってバスケットのリングに向かってシュート、お前もやってみろとボールを小生にパス、見よう見まねでシュートしたが、ボールはリングに届かず、これが小生のバスケットボール事始めとなった。
シュートしているうちにリングにボールが入り始め、面白さを感じ始めた。
米兵が言うには、「アウトドアでなくインドアで練習したい。インドアを貸してくれるところを紹介してくれ」と。言葉はよく通じないが要望を理解した。
再びジープで天神まで送り届け、ソーセージ、パン、チョコレート、チューインガム、たばこなどをプレゼントしてくれた。ありがたや!である。
戦後の食糧難時代、飢えをしのいでいた日本と戦勝国の格差を身にしみて感じたものである。
その後米兵と仲良くなり、わが家に出入りするようになり、飲食を共にすることもあった。
日本人オフリミットのビンゴゲームや喫茶店にも連れて行ってくれるほど親しく付き合った。名前はジョージウィリアム21歳。
戦時中に開校した旧制香椎中学は講堂兼体育館にバスケットボールの設備がない。担任の榎治先生に「米兵が講堂にバスケットボールのリングを取り付けさせてくれ」との相談を持ち掛け許可が下りたので、ジョージに伝えたら大喜び、2日後に取り付けが完了。
リングは付いたがボールがない・・・さてどうする?続きは次回