原裕一郎のバスケットボール物語 2)
戦前から戦時中は福岡市萬町3番地(現在親不孝通り・明治通りから3軒目)に住んでいた。
強制疎開により立ち退かざるを得ず、上名島町(現在昭和通り大名2丁目の路地裏に転居、福岡大空襲(1945年6月19日)を経験したが、焼失は免れた。
8月15日、大東亜戦争に敗れ、福岡市も米国の占領軍が進駐し、占領下にあった。
進駐軍は板付飛行場(現在福岡空港)や西戸崎(東区)にあって、彼らは駐屯地から市の中心部(天神町交差点から明治通りの萬町までと、萬町から右折して長浜通りまで(現在の親不孝通り)は、ダンスホール、ビヤホール、ビンゴゲーム、映画館、飲み屋が軒を連ね、占領軍相手の街娼(パンパンガール)がいて、家を一歩外に出ると米兵たちが屯(たむろ)していて、戦後まもなくは天神や親不孝通り付近は環境のいい地域ではなかった。
家を一歩外に出ると、米兵たちに会う、小生は当時14歳(旧制中学3年生)まだ子供である。米兵を捕まえ「ハロー、ワッチュアネーム?マイネームイズユーイチロウハラ」などと言って近寄ると、チューインガムやチョコレートをくれる。戦後、食べ物に飢えていた時代、ジープを運転してきた兵隊に声をかけたところ、“乗れ”という、乗ったこともない見たこともないジープ、子供なので怖さ知らず、乗せてもらったところ、国道3号線を箱崎方向へ、英会話ができない原少年・・・・続きは次回
今後とも何卒よろしくお願いいたします。
原裕一郎のバスケットボールとの出会い!(2)
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